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15.May.2012〔TUET〕
HEISEI NAKAMURAZA THEATRE ASAKUSA SUMIDA-PARK TOKYO JAPAN.
浅草平成中村座にて。
来月から新橋演舞場皮切りにスタートします。澤瀉屋襲名披露公演!襲名狂言の一つ、スーパー歌舞伎「ヤマトタケル」は、1986年3月新橋演舞場での初演以来、19回(26ヶ月間)もの再演を続けて参りました。昭和61年の初演時より、附け打ちを担当されていました、小倉直一氏(現・金井大道具株式会社)への附け打ち委員会からの、インタビュー記事を掲載いたします!観劇の予備知識としてお読みください!これは附け打ち委員会ホームページへも掲載しております。
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題して、
【「附け」の新たな可能性・その誕生のお話】
Q.001 ◇稽古場初見の様子を聞かせてください◇
ところで「八つの質問」て何だい?自然にいこうよ、自然に話すからさ。
俺はね、常に自然体だよ何事も直感で動くからね(笑)。
初めて稽古を見た時?それより、最初に貰った台本を見て驚いたね。まるで電話帳のようだったよ。ちょっとオーバーだけど。でもスーパー歌舞伎は現在まで全9作品、
・ヤマトタケル
・リュウーオー ~龍王~
・オグリ ~小栗判官~
・八犬伝 ~南総里見八犬伝~
・カグヤ
・オオクニヌシ
・新三国志
・新三国志Ⅱ 孔明編
・新三国志Ⅲ 完結編
上演台本が13冊あるんだけどそれぞれの作品で、第一稿・第二稿って書き換えるだろ。全部数えると一体何冊になるんだろなって尋ねた事があってね。プロデューサーは「数えられない」って言っていたよ。だから第一稿は、本当に電話帳だったと思うよ。最初稽古場はね、決まった場所がなくて都内の体育館を借りたり、転々としてたよ。立会川の「コント赤信号」の稽古場を使わしてもらったこともあったよ。最初稽古を見た時は、俺たち附け打ち・大道具・カオス・その他のスタッフ全員が手探りでやっていたような感じだったね。澤瀉屋は、脚本作りから携わっているわけだから、稽古場に上がる時点ではもう「夢」を見て作品として創造できる段階になっていただろうけど、俺たちは正直そこまでは行かなかったね。無我夢中。でも基本は歌舞伎なんだから、体にすんなり入り込んでいったよ。気になったことは、音響さんの音量が大き過ぎると思ったので、「少し附けの音を拾って欲しい」と注文をしたことだね。音響さんも「附け」という特殊な効果音が入ることは分かってはいただろうけど、どういう風にコラボレーショーンしたらいいかは、稽古場で決めて行かないといけないからな。もちろん、舞台にいってからが勝負だろうけど、稽古場で附けの音量の限界を知ってもらっておかなくてならないし。第一、相手は機械だけどこっちは生身の人間だからね。もちろん生音で勝負している歌舞伎だから、附け打ちとしてのプライドはあるけどね・・・、こればっかりは勝負にならないよ。
☆稽古場は約一ヶ月。歌舞伎界初めての試みにスタッフは総動員、大道具仕掛けも試行錯誤の連続だったそうだ
Q.002 ◇澤瀉屋さんからの要望・やりとり・余談◇
猿之助さんからの注文はね。大まかにいうと無いんだよね。全体的なイメージは、通して稽古を見てれば分かるし自然と体が動いていく感じだったね。特に「スーパー歌舞伎なんだ!」という意識をしなくて、対市川猿之助で芝居作りに参加しているわけだから、あくまでも大歌舞伎の手法を基本にして、それをどう猿之助さんの気持ちを汲みとって対応するかだよね。過去に本人が演出した歌劇「イダマンテ」では、強調音が欲しくて、即座に俺が呼ばれたんだ。「附け」の音は、オーケストラのどのパートでも決して出すことの出来ない音なんだよ。歌舞伎俳優ならではの演出だよね。何作目のスーパー歌舞伎だったかな。「宇宙的な音をだしてくれ」って言われた事があるよ。宇宙的な音?いろいろ考えたよ。板と柝の材質を変えてみたり、結局打ち方を工夫することで納得してくれたんだ。俺の場合、スーパー歌舞伎シリーズが始まる以前から、猿之助古典作品に携わってきたからね。「岩藤」なんかの復活通し狂言では、再演が繰り返される度に何度も何度も台本に「次はこうしよう、ああしよう」って書き込んで手直ししていったんだよ。再演される度にその書き込みを見直して少しずつ工夫を重ねていった。本当に息が合っていたし、何より澤瀉屋は常に完璧を求めるから、俺も常に完璧に対応するように努力していたね。ごまかしが効かない。お互い決して手を抜かないんだ。気合い!気合い!でね。
余談だけど、こんな事があったよ。大阪新歌舞伎座で、「伽羅先代萩~御殿・床下の場~」で、仁木弾正(澤瀉屋)が見得の無いところで見得をしたんだ。あっ、と思って俺は身体が反応して打ってしまったんだ。すぐに楽屋に行き誤ろうと待っていたら、おもだかやが「ごめん、僕が間違えてしまったよ。」といってたよ。珍しい事だね。それから、梅田コマ劇場の「孫悟空」の時、澤瀉屋が上手に入って舞台裏で早替わりで下手袖を走って花道から出てくる場面があったんだ。その早替わりが間に合わない時があってね、もう花道に出てなきゃいけないんだけど、何時までたっても附け場から下手を走る姿が見えない。当然、間があいちゃうだろ。だからお客さんは変だなと思う前に、アシライを打って繋げたんだ。そうしたら猛スピードで下手袖をダッシュする姿が見えて、安心したよ。一ヶ月通して何があるか分からない、とにかく常に直感で反応していたんだ。どんなハプニングが起ころうとも役者さんを立ててあげるのがこっちの役目だかね。毎日毎日、舞台で澤瀉屋と言葉の無いやりとりをしているようだったね。
そして一ヶ月かけてやっと完成に近づけるんだ。
Q.003 ◇1986年2月:初演の初日を終えて◇
初演の初日の日なんて、忙しくて忙しくて、感動したとかそういうものはないね。ただ、序幕が開いて大せりで、帝と皇后達がせり上がってくる時に白の木蓮の花が印象的だったね。綺麗だった。でもな・・・・・・セリが途中で止まっちゃったんだよ。幕を閉めてすぐに対処したけどね。そういう意味で印象的だった。でも大変だった。とにかくね、いくら稽古・舞台稽古を積んでいるからといっても皆手探りだからね。もちろん俺も大道具の事も見なくてはならないしね。感動する暇なんてないくらい動いていたよ。飯食う暇も無いんだから、ほんとうに。大詰めのお墓の階段の仕掛けも俺がやってたんだよ。重要なきっかけ物はとにかく携わってたんだ。打っては転換、打っては転換!と忙しいってもんじゃなかったね。
Q.004 ◇場面による工夫 第一幕・第三幕◇
◆第一幕第五場 熊襲の国 タケルの新宮~熊襲征服~
第一幕のこの場面は、とにかく熊襲の館での立廻りだね。この大立廻りはとにかく、スピードとリズムを大切にワンパターンにならないように気を付けていた。特にこだわっていたのは、熊襲兄弟役が当時は、弥十郎さんと信二郎さんだったからその伸長差をより誇張するために、打つ強さを変えていたことだね。それから幕切れで弟タケルが殺された後、打ち上げの見得になるんだけどそこが一番きつかったね。立廻りが終わって一度附け木を置こうとしても、手から離れないんだ。腕は固まっちゃってるし、とにかく気持ちから切り替えないといけないんだ。気を入れ直す為に、ほっぺたをパチン!と打ちたかったくらいだよ。大立廻りの最中は姿勢を崩さず、呼吸を乱さないように心がけていたよ。
◆第三幕第二場 伊吹山~伊吹山の山神の退治~
ここは、山神がイノシシになって出てくるところがあるね。このイノシシは、忠臣蔵五段目のイノシシとは全く違ってね、もっと荒っぽく、暴れ馬ならぬ暴れ猪だからもっと激しく獰猛(どうもう)さを出さなくてならない。スーパー歌舞伎「オグリ」に出てくる馬の打ち方とは、間といい、豪快さといい、またニュアンスが違うんだよ。あと、姥神が命をかけた雹(ひょう)を降らす場面と、最後タケルが悶絶してしまう場面。ここの打ち方は、大太鼓が大ドロで、附けがそれに受ける「連理引(れんりびき)」というんだ。古典で代表的なのは、「色彩間刈豆~かさね~」の幕切れので与右衛門が殺害したかさねの怨霊の力で引き戻されるシーン。ここでも山神や姥神の妖術の力によってタケルはやられてしまうんだ。ここでの連理引は初演時には、今回よりも3回くらい長かったんだよ。だからもう、俺の目は開きっぱなしで、打ち終わった後は自力で目が閉じられなかったんだ。
Q.005 ◇場面による工夫② 第二幕◇
◆第二幕第三場 焼津~草刈り・火責め~
火責めのシーンは、蝦夷征伐の向かう道中に立ち寄った叔母のヤマトヒメから授かった「天の村雲の剣」で草を刈り、お守りに入っていた火打ち石でその草に火を付け逆に火責めにしてしまうとうい場面。タケルとタケヒコが草を刈る所では、韋駄天の打ち方で軽くリズミカルに打ったんだ。これは一発OK!附けの種類は20通りもないからね、その中のものを基本にしてどう工夫することが出来るかは、経験でしかないね。これは見ている以上にやると難しいんだ。走ってしまい勝ちなんだ。リズムをキープすることは本当に難しいよ。余談だけど、この草刈りの仕掛け、初演時はうまくゆかなくて一斉に倒れてしまうことがあったんだ。草の量も以前よりも多かったしね。今回は「ペットボトル」を使ってうまく工夫しているよ。それから旗回しのシーン。タケヒコ役はお兄ちゃん(中村歌六さん)だった。旗を大きく、重たそうに魅せなくてはならないので、間合いをよく見て徐々に縮めていって打ち込んでいく。何回廻してこう・・・なんて考えては駄目。お兄ちゃん時々、俺が大変なのを知ってるからワザと回数を多く廻すんだよ。こっちはたまったもんじゃないね!
その後の使者の兄弟を殺すシーン。例のストロボ照明を使った場面だね。あの演出は初めの稽古場では無かったんだ。立廻りは普通にやってるし、どうしたら良いものかと考えていたよ。稽古が進んでいくうちに、ストロボを使うことになって。考えた末、そのストロボの点滅の速度をイメージして打って見たんだ。稽古場では想像して打ってるだけだったから全体イメージしか頭になかった。そのイメージが膨らんだのはやはり舞台稽古からだね。実際そのシーンを見て打ち始めて、ただ同じ音で打っているだけでは面白くないし変り映えがしない。何か工夫がないものかと考えていたら、板全体をつかって何種類かの音出すことを思いついたんだ。もちろん強弱も付けながら、トドメの一発は思いっきりバラッっと打って・・・・・それが現在に残る打ち方「蝦夷打ち」なんだ。
Q.007 ◇猿之助は「附け」に何を求めたのか◇
そうだね。(と、ちょっと考えて・・・)
澤瀉屋がよく言う、スーパー歌舞伎の3大要素とも言える「3S」ってあるよね。それはストーリー、スピード、スペクタクルのことなんだよ。附けに求めたのも、やはりそこなんだと思うよ。附けが入るのは、何故かって?やはり根本は歌舞伎だからだよね。歌舞伎的な演出のお芝居でも附けや柝頭や鼓の音が使われることが多いよね。つまり附けの音は、歌舞伎の象徴的な音ってことだよ。Q004・Q005・Q006の質問で答えた俺の工夫の原点はすべてこの3Sにあるんだ。澤瀉屋・市川猿之助という歌舞伎俳優の思いを全力で受け止めてやろうっていう気持ち・そしてあの人が見ようとしている「夢」を叶えてあげたかった。いや一緒に夢を見てみたかったような気がする。これは、19年経って今思う事だけどね。当時は文句もあったよ、いろんな面でね。でもただ夢中になってやってたからね。俺も脂がのっている時だったね。みんな手探りだけど、先は解らなかったね。スーパー歌舞伎がこんなにまでなるとは、だれも思ってはなかったのではないかな。今思うと感動と言うか、うれしいね。おもだかやも皆も、もちろん俺もスーパー歌舞伎を追い掛けていたね。無我夢中でね。いい仕事したと思うよ。後輩たちへ継承も出来てるしね。
Q.008 ◇小倉直一さんの思い出&メッセージ◇
◆いきなりこんな質問をしてみました。「いまスーパー歌舞伎打って見たいですか?」 (やりたいか、やりたくないかは別にして)・・・やれば直ぐに思い出すだろうな。実はね、1987年の澤瀉屋のヨーロッパ公演中に病気で倒れちゃってね。この後五ヶ月間休んだことがあったんだよ。それから復帰後に打ったのがスーパー歌舞伎でね、何作目か忘れたけど。現場仕事をしてなかったせいで、俺の手は女の子の手のように綺麗になっていたんだよ。それでいきなりスーパーだろ。手のひらに附け木の跡が付いてしまってね。内出血だよ、大変だった。だから生半可な気持ちじゃ打てないよ、附けは。
◆話は進み、小倉さんの歌舞伎遍歴・澤瀉屋さんとの思い出からトチッタ話までしてくださいました。
俺の初巡業は、11月の文化庁巡業でね。演目は確か、双蝶々曲輪日記 角力場/仮名手本忠臣蔵七段目/梶原平三譽石切の三本だったかな。役者は、仁左衛門(十三代目)・羽左衛門(十七代目)・我當・秀太郎・・・・だったかな。附けも何も全く分かんなくってね。橘屋(羽左衛門)さんがね、俺をこうしたら見得を打つんだって風に教えてくれたのが唯一の救いだったね。それから一年くらいして巡業に出たら、我當さんに「小倉君前に比べたら随分うまくなったね」といわれたよ。よっぽど聞いてられなかったんだろうね。トチッタ話ね。思い出せないけどな・・・附け木にすべり止めをつけるようになったのは、猿之助芝居のときに附け木が滑ってしまってね。それから新しく作る度に必ず付けるようにしたんだ。そうそうトチッタ話といえば、「伊達の十役」でね。打って舞台袖に入って引っ込んで、台本を直していたら、その後の見得を忘れていたりね・・・そんなところかな・・・あと巡業でね(これはもう時効だからいいかな)、京屋(雀右衛門丈)の京鹿子娘道成寺で、幕切れに打ち上げがあるだろ?いつも出番まで、舞台袖で待機しているんだけど巡業で疲れもあったんだろうな。上手袖で黒の着流しを掛けて寝ていたんだよ。知ってると思うけど会館の舞台袖って空調が聞いてて気持ちいいんだよ。床も程よく冷たいしね。そうしたら、幕切れ直前に狂言作者が呼びにきて、慌てて飛び起きたはいいけど、布団がわりに被っていた着流しは何処に跳んでいったか分かんなくなってね。附け木は頭の横に置いていたから、即座に持って附け場へ猛ダッシュしたよ。運良く間に合って、柝から打ち上げの見得で華麗に幕!となったんだけどね。・・・その時の俺の格好は、上は黒のTシャツで下が黄色の短パンだったんだ。情けないねこれじゃ後輩に、何にも言えないね(笑)
。附け打ちは身体が資本。まぁ、どの職業でもそうだろうけど、この俺の経験を言うとね・・・。明治座で澤瀉屋の通し狂言をやってる時に胃痙攣(けいれん)を起こしてしまったことがある。巡業では、九州の井筒屋デパート主催の公演で、夏だったんでね、食中毒になっちゃたこともあるよ。一番大変だったのは、上にも書いたけど、1987年市川猿之助丈一行のヨーロッパ公演。マドリード~パリ~ロンドン~東ベルリンと廻るツアーの途中、ロンドンの劇場で胃潰瘍で倒れてしまったんだ。そのままロンドンで一ヶ月入院することになってしまったんだけど、これは一生忘れられないよ。この時俺は大道具のチーフ兼附け打ちだったんだけど、メンバーの中に、弟の実利(小倉実利氏)と歌舞伎座の伊勢(伊勢裕之氏)という二人の附け打ちが来ていたんでね、助かったんだよ。伊勢くんが附けを打って、実利が大道具を見てくれてね。仕込み・本番から撤収と、とにかく忙しかったから、俺が抜けて今まで以上に大変だったと思うよ。申し訳なかったと思う。ある時ね、ロンドンからパリの入院先の病院へ、澤瀉屋と紫先生(藤間 紫)が来てくださったんだ。そんとき、紫先生は泣いてね。澤瀉屋はなんて言ったと思う?「あんた、いい機会だから英語の勉強でもしなさいよ!」だって。・・・救われた気持ちになったよ。こんなこともあったな。名古屋の御園座に出ている時、一回公演があってね。私用で大阪に出掛けていてね。翌朝新幹線が遅れてしまってね。開演の間に合わなかったことがあってね。清元さんか長唄さんかが、同じ事情で遅刻して間に合わなくってね。その代役はなんと弥十郎さん(坂東弥十郎丈)と芦燕さん(片岡芦燕丈)だった。二人が山台に座って、唄と三味線で出ていたんだよ。澤瀉屋に謝りにいったら「あんた、生きた心地しなかったでしょ」って言われたよ。
永年澤瀉屋の芝居に参加していて、ひとつ確かに思うことは、義経千本桜の吉野山の狐忠信と、四の切の佐藤忠信実は狐忠信は、澤瀉屋が絶品だということ。何が違うって、「目」が違うんだよ。吉野山でぶっかえって花道に行くときのあの目、花道での振りでは1メートル以上も跳ね上がるんだぜ!すごい運動量だよ。足(膝)が悪くなって、「俺、もう附け打ちを辞めます」って言ったら、澤瀉屋がね、「舞台に穴を開けるから、やらないかい?」と言われてね。俺は直ぐに「後継者がいますから、大丈夫ですよ」と答えたよ。
◆最後に小倉氏よりのメッセージです。
附け打ちの全盛は、年齢的に35歳~45歳。僕はその頃、明治座と演舞場を行ったり来たりしていてね。澤瀉屋はよく明治座で古典の復活通し狂言を上演していてね。演舞場でも大歌舞伎がかかるし、両方の台本を持って、徹夜で直したり、とにかく時間が欲しかったよ。後継者の育成ことについて思うことは、舞台でも時々公演中に若手の勉強会ってやるよね。やはり本公演中だから余計に打ちづらいんだよ。と同じで、役者も附け打ちが代わると違和感を感じると思うんだよね。でもお互い本番で経験を積んでいかないといけないからね。そこのケアを役者さん側もこっちも理解し合わないといけないんだよね。後輩に言うことは、今回のヤマトタケルの稽古場でも「音がイタイよ」なんて言ったんだけど、やはり聞いてて心地よい音を出すこと、強調すべきところは十分生かして、殺すところはきちんと見極めて打たない。打つ意味や気持ちは、その芝居を壊さない限り個人々の思いでいいんだ。附け打ちの基本はやはり「音と間合い」これを忠実に守っと経験を積んでいくことなんだよ。それから同じ演目でも時代も違えば、その役者によって思いが違うから当然演じ方が違う、同じ役者でも例えば3ヶ月もたてば考え方も違っているかもしれない。それ相応に接していかないといけないんだ。
・・・以上、タバコも無くなったし、さっ帰ろうぜ。
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<編集者後記>
小倉さん(私達は直さんと呼んでいます)、本当にありがとうございました。
小倉さんにはお仕事後、4時間にもわたりお話を聞くことが出来ました。40年分の経験は到底書面では書き表わす事が出来るハズはなく、今回のお話一つ一つの背景に、輝かしい実績が残されている事実があること、すでに後継者が二代・三代と引き継いでいる事柄が存在することを思えば、歌舞伎の世界の真の踏襲を全うした人なんだなと改めて感じさせられました。そのことは小倉さんが自分の経験や技術を出し惜しむことなく伝えてきた結果でしょう。そこが、我々附け打ち委員会のメンバーの最も目標とする所なんです。
以上です!!!
附け打ちエッセンス2012